病気をうつすことは「罪」なのか?【哲学者・仲正昌樹論考②】
■直接的危害と間接的危害
アメリカの代表的なリベラル系の法哲学者ロナルド・ドウォーキン(1931-2013)は論文「私たちにポルノの権利はあるのか」で、他者危害原理をそのように拡大解釈するのであれば、神を冒涜する耐え難い邪教を――私的領域において――信奉しているという口実で、少数派の宗教を弾圧することと区別できるのか、という問いを発している。これはかなり難しい問いである。ポルノと“マイナーな宗教“を、具体的な害の面で客観的に区別しようとすれば、様々な心理・社会学的なデータが必要になりそうだが、そういう調査自体が「プライバシー」の侵害になりかねない。
「危害」の定義をめぐる、これと密接に絡んだもう一つの問題点として、間接的危害をどこまで含めるのか、ということがある。殺人・障害、窃盗などは、相手の生命や身体に直接的危害を加えるので、これらを他者危害原理の対象にすることにはほとんど異論がないだろう。
では、人を殺傷できる機械や道具を製造したり、提供したりする行為についてはどうか。銃刀法などで規制されている部分もあるが、技術の発展によって何にどのように手を加えると、“危険な武器“として転用できるか完全に把握することはできないので、明確な線は引きにくい。
財産権やプライバシー権の侵害をめぐる問題については、更に線引きが難しい。2004年にファイル交換ソフトWinnyの開発者が著作権侵害行為を幇助したという容疑で逮捕される、という事件が起こったが、こうした間接的に他者危害に“関わってしまう“ケースは近年増加している。ネット上で名誉棄損や業務妨害をやっている人間を、そうとは知らずに褒めて、調子にのらせてしまうようなことについてはどう考えるべきか? その人の行為と、結果的に生じた危害の間に距離があり、はっきりした因果的な関係が認められないと、意図的に関与したのかどうか判定しにくい。
■コロナ患者を罪人扱いする社会とは
コロナ問題は、こうした危害をめぐる自由民主主義のジレンマを、ある意味、簡単に“解決“してしまった。緊急事態宣言の再発出や欧米並のロックダウンを強く要求する人たちに言わせれば、コロナを他人にうつすのは殺人に等しい。
マスクをし、ソーシャル・ディスタンスをキープし、リモートワークや時差出勤に積極的に取り組んで、他人にうつさないよう最大限の努力をするのはいわずもがなで、“不注意“で感染してしまったこと自体が責められる。PCRで感染したと判明した人の名前が知られると、その人が感染者に安易に近付いていないか、バーやカラオケ、ライブハウスに出入りしていなかったか、感染拡大地帯に旅行していなかったかなどが取り沙汰される。
東京や大阪など大都市から来ることは遠慮してほしいと、地方行政のトップである知事や市長が呼び掛け、大都市のナンバーの車を見ると、人殺し、恥知らずと罵られる。それまで感染者があまりいなかった地域で、大都市から移動して来た人、あるいはその濃厚接触者が“感染源“になれば、本人がどういう行動を取っていたかに関わらず、罪人扱いされる。まるで、「穢れ」だ。
前近代社会では、ハンセン病患者等が神から呪われた存在、穢れた存在として、社会から排除されることがあったが、近代の臨床医学が発展するようになってから、穢れのような神話的な観念は次第に排除され、病人が罪人扱いされることはなくなった。
感染症の原因は、細菌やウィルスであって、本人の瀆神行為ではない以上、感染した人が責められるはずがない。健康上の不注意について多少、上司や先生、身内から叱られる程度であった。風邪やインフルエンザを他人にうつしてしまったからといって、社会全体から非難の対象にされるというようなことはほとんどなかった。AIDSのように深刻な症状をもたらすものでも、少なくとも現在の新型コロナの場合ほど、“感染源“が激しく追究・糾弾されるようなことはなかった。